歴史

開創から現在に到るまで

天正年間(1570年代)の開創。三世中興の代・寛政年間に(1780年代)寺号を「正應寺」とする。
曹洞宗に属し、久野総世寺第十世傅室光大和尚の開山であるが、その後200年に渡って史実が途絶えている。
言い伝えによると、400年前の小田原郷は戦火の渦にまきこまれ戦に倒れたものはその数をしらず、悲惨さはこの世の地獄さながらに、おびただしい死者や手負いのうめきは叫換地獄もかくやと思われた。
やがてこの死者を葬うため谷津を墓とし、その鎮魂のため當寺の本堂を移築して谷津慈眼寺が建立された。
その本堂は、箱根道中の安全祈願のため板橋地蔵尊の堂宇として再び移築され現在も目にすることができる。
徳川の代に至って二宮大應寺中興蔵海寂性大和尚は當寺の復興を図ったが再建には至らず、その法孫龍海禹門大和尚はその因縁を尊び寛政年間に江戸水道橋の旗本、万年佐左衛門頼族公(幕府直轄地・二宮大官職)の寄進により、本堂・庫裏・観音堂を建立し、寺号「正應寺」が公称された。
万年佐左衛門頼族公は「當寺開基正應寺殿泰山源康大居士」と贈名され、龍海禹門大和尚は「當寺中興開山」と称されている。
本堂には、釈迦牟尼佛座像(行基菩薩作)が本尊として奉安されている一方、観音堂には十一面観世音菩薩座像、四国八十八札所のご霊石、西国・秩父・板東の日本百観音霊場のご霊石が奉安され、札所霊場の信仰を集め大念佛講中を組織し祈禱寺として大いに教風を振いましたが、関東大震災で一切の堂宇は倒壊し、後に本堂だけを引起し補修改築して諸国観音霊石はそのまま本堂に奉安してあります。
中興開山龍海禹門大和尚の利済衆生の道心が広大無辺であり、万年賢君公の王法佛法護持の道念が厚く相州足柄郷の万劫に亘る安寧守護の大功徳は計り知れない。
現存する仏像の由来、寺号額・扁額の筆者・板戸や欄間絵の絵師・宝篋印搭・金光明最勝王経搭・弘法大師座像・南無大師遍照金剛石・禁牌石などから伺い知ることが出来る。
関東大震災後は大念佛講中も観音堂の消失と共に絶えて、霊場信仰のにぎわいも失われております。
十二世宗開梅門大和尚の代には弘法大師様石像の横に大師に因んだ筆子中の石碑が建てられております。
また山門地蔵堂の地蔵尊は弘法大師御作と伝えられるもので、称光天皇のころ大口の堤に祀られた六地蔵一体が洪水で流され門前地先の三本柳に留まり住僧に夢のお告げがあり、元和三年川底からお迎えしお奉りしたと伝えられています。
大正・昭和へと時代が移り震災から復興に至らないまま、日本は世界大戦へ突入しお寺は兵隊の宿舎となり疎開者の住宅に供される中、九戸の檀家によって護持されてきたのです。
戦後、国の政策による農地解放で田畑の大部分を失うこととなり、かつまた宗教法人法により宗教法人認証を受け、定められた枠の制限が課せられ、寺は一層困窮の一途を辿ったのであります。
その最も困難な時代に第十六世大純元降大和尚は正應寺版の「正法眼蔵研究序説」を発刊され、駒沢大学で教鞭を執り最後は同大の総長を務められた方で、世界屈指の「道元禅研究家」として知られる鏡島元降先生であります。
その師匠様であられる鏡島宗純老師様は曹洞宗の宗務総長を務め、その後伊藤道海禅師様の侍局長となられた方ですが、九年間、当正應寺に居住されその間の記録書き物の全ては宗純老師様の筆で今も保存されている。
第十七世大法顕瑞大和尚は、宗純老師が身罷る直前に病室にて正應寺を託されたと言う。
檀家九戸の寺、友人身内の反対を押切り、「飯は口で食う」の決意で、宗純老師とのお約束を果たすべく当寺に入った。
大雄山最乗寺に務め、岩本禅師様のご推挙にて全日本仏教会組織部長・総務部長をおえて大雄山紀綱職を務めながら同時に本堂の修復、庫裏の建設、参道の整備を成し現在の復興の基盤を整えた。
現在は、第十八世阿部一顕の代に至り檀家の数も多くなり、庫裏の新築、新本堂の建設も終えてようやく開山様、中興開山歴代住職の辛苦を超えた利済の願心に報いるよう、種々の苗を植え、日本の「信心ごころ」を耕しているところです。

正應寺略縁起

満谷山正應寺は、神奈川県小田原市府川にあり、曹洞宗に属し小田原市久野総世寺第十世伝室光(でんしつこうとん)大和尚の開創した古刹で、天正年間にさかのぼります。
四百年前、小田原郷は戦火のうずにまきこまれ、連日くりかえされる戦いにたおれたものはその数をしらず、その悲惨さはさながらこの世の地獄であったのであります。

おびただしい死者の中に、まだ死にきれない手負いのものゝうめき聲はさゞ波のように人々の耳朶を襲ったといい、まさに叫喚(きょうかん)地獄もかくやと思わせる恐怖におのゝくばかりでありました。やがてこの死者を葬うため、谷津を墓としこの鎮魂慰霊のため当時の本堂を移して谷津慈眼寺を建立したが住僧も定まらずその本堂は板橋の地蔵尊の堂宇に再び移築されたものであります。

その後正應寺住僧入出の記録は二百年にわたって不明であります。
龍海禹門大和尚は因縁を尊び寛政年間に江戸水筒橋の檀那、万年佐左ェ門源頼族氏の帰依をうけ堂宇を設立して中興三世となり寺號を公称したのであります。以来約二百年、現住を以て十七代をかぞえます。

ご本尊釋迦牟尼佛は行基作という御木像、別に薬師如来、十一面観音菩薩の御木像を奉安し、三世中興は西国四国坂東秩父の観音霊場を巡拝して石を聚め観音堂を建立し、隣郷近在の信者を集めて大念佛講中を組織し大いに教風を振いましたが関東大震災で一切の堂宇は倒壊し、後に本堂を補修復興して諸国観音霊石はそのまゝ本堂に奉安しています。

石の地蔵尊像は弘法大師御作と伝えられているもので、袮光天皇の御宇(550年前)大口の堤にあられた六地蔵の一体で大洪水によって流され当寺の門前地先の三本柳に留まり給う旨住僧に夢のおつげがあり、元和三年(360年前)に川底からお迎えしたが、その後そのお像は寺中の何処にあるか拝んだ人もなかったという、大震災で倒れた本堂を引き起こした跡から、気の縁起札とともに石の御尊像が再び出現されたもので以来本堂の須称壇上に奉安し、霊験あらたかなお地蔵さまと多くの人々の崇詣をあつめております。
昭和五十二年秋
地蔵尊由来来記  この地蔵菩薩の由来をたづぬるに、昔毬湖川の辺、大口の堤に六度済度の為、弘法大師彫刻し給い置きし六地蔵尊なり、その後称光帝の頃有緑の地に到らんため三体流れに入り給うて当村三本柳と云う所に留りたまい、この処は地獄済度の佛地也と当寺の住僧に夢のお告げあり、之により元和三丁己年、堂寺に安置し奉る霊験あらたかなる尊像也
 あとの一体は多古の堤に留り餓鬼路済度の地なりとその処の人夢見せり、一体は修羅済度のため大海に入り給う由申伝える者也

正應寺開墓之記

正應寺開墓之記
 萬年佐左衛門頼族公が、地主である名主七兵衛から山林田畑を永代買い調え置き、八万四千所の佛法浄域を作っていくというお釈迦様の轉法輪を実現していくために宝財を喜捨して山林田畑を調え、長く寺の相続として志す願いをたてた。これを正應寺と大應寺が許可したことが書かれている。これによって正應寺の開基となる。
 開基となったということの証明と同時に、不退轉の教えや法輪を轉じて、毎年三月二十日は萬年家の反映とこの近くの一切の願心を受け止める観音菩薩を修し、七月二十日は大施餓鬼を厳修して先祖代々の回向、諸神霊に子孫繁栄を祈り奉り、萬年家あるいは檀家に対する供養をやっていくと書かれている。
 最後に、その証明として地主である名主七兵衛が、萬年佐左衛門頼族公の御用人である人に、右正應寺様大應寺様ご印証の通り、山林田畑別紙目録によって永代買い調え置き申し上げると書き、この内容に間違いがないことを確認し奥印が押されている。
永代供養墓
正應寺 宝物
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